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× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 ギリシャでも日本同様、タクシーを停めるときには手を挙げて合図します。しかしこのとき注意しないといけないことがあります。それは手のひらをひらいたまま、特に開いた手のひらを運転手さんのほうへ向けて合図してはいけない、ということです。つまり、日本式の合図の仕方はご法度ということです。 ギリシャで手のひらを開いて相手に向けることは、相手を侮辱する意味のジェスチャーなのです。手を挙げるときには人差し指だけを出し、指差すように合図をするのが正解です。 これはむしろ日本では、失礼にあたりそうですよね。 また、停留所でバスを待っていても、日本のようにバスが停まってくれるとは限りません。待っている人がいるからといって、停まるとは限らないのです。特に何本かの路線バスが停留所を共有している場合など、合図をしない限りまず、停まってもらえません。 また街を流すタクシーを見ていると、お客が乗っているタクシーに手を挙げて乗り込む人がいます。これがギリシャ流相乗りです。政府は禁止しているということですが、健在のようですね。つまり、ギリシャではたとえ先にお客さんが乗っていても、合図をすればタクシーは停まるということです。そしてタクシーが停まったら、すかさず行き先を告げます。すでに乗っている人と方向が同じなら相乗りさせてくれるのです。料金はどうなるのだろう?とちょっぴり不安になりますが、メーターは運転手さんの頭のなか・・・という感じでしょうか。でも、庶民の足であるタクシーは、それほど法外な値段を吹っかけるということはないようです・・・たぶんですが・・・。
PR クリスマスが近づいたギリシャの町のパン屋さんやお菓子屋さんには、アーモンドがたっぷりと載った茶色のクッキーと、真っ白な粉砂糖で包まれた・・・一見、お饅頭のような・・・ぽってりとしたクッキーが並びます。ギリシャのクリスマス~新年の定番のお菓子、メロマカロナとクラビエデスです。 まずは、比較的簡単なアーモンドたっぷりのメロマカロナの作り方をご紹介します。このアーモンドは、クルミやピスタチオに替えてもOKです。生地の中にも、そして外にもアーモンドがふんだんに使われた香り豊かなクッキーです。 ◆材料(約24個) ★フィリング ★生地 B
4年に一度開催されるスポーツの祭典、オリンピック。その発祥の地がギリシャのオリンピアです。現在でもオリンピック聖火は、ここにある古代オリンピア遺跡のヘラ神殿で点火されます。 オリンピアは、美しい山間にある人口1000人にも満たない小さな田舎町です。神話によると、この地は古くから「聖なる森アルティスの礼拝地」として知られていました。その後、クロノスの丘あたりにゼウス神の父クロノスの神域が建てられものの、ゼウスがクロノスに代わってオリンポス山の主神となると、ゼウス神の聖なる巡礼地としてよりいっそう栄えたのです。 オリンピア遺跡以外は、これといったものは何も存在しない、といってもいいこぢんまりとした町、オリンピアですが、おいしい家庭料理を出すタベルナなど、ゆっくりと散策したい町でもあります。 オリンピアの遺跡のなかのヘラ神殿は、ゼウスの妃ヘラを祭った神殿です。是紀元前7世紀のものでギリシャに残る神殿のなかで最も古いものです。この神殿から古典期芸術の傑作として有名なプラクシテレス作の「赤子のディオニソスをあやすヘルメス像」が発掘されたのです。現在は、遺跡に隣接されたオリンピア博物館に収められています。 オリンピア博物館の第8室がエルメスの部屋となっています。ここに「赤子のディオニソスをあやすヘルメス像」があるのです。ゼウスの使者ヘルメスが、嫉妬に狂ったゼウスの正妻ヘラからディオニソスを守るために、ニンフ(妖精)たちに届けようとする姿を描いたものです。
神の礼賛は、ギリシャ正教修道院の修道士の最も重要な務めです。それは神との対話です。修道士は日に6時間から7時間、日曜と祭日には11時間あまり、ひたすら祈り続けます。忍耐と献身、そして俗世界に対する忌避の念をもって黙想、断食をします。 修道士は全身全霊を込めてお勤めを果たします。工作、イコンの製作、農作業などに従事するのです。修道士のなかには、修道士になる前は大工であった者、庭師であった者など、さまざまな俗世の職業に就いていたものもいるのです。 彼らの勤めは、利益のためではありません。労働から得られる収入は、協会に寄付されたり、学校の運営資金に当てられます。社会的貢献を促すのに用いられることもあります。 ギリシャ正教の修道院での礼拝に加わると、聖職者席で祈る修道士の姿、お香の香り、壁やイコンに描かれた聖人の像を照らすろうそくの光、そしてドームの高みから下方を祝福しているキリストの像に自然と敬虔な気持ちになります。 ローマン・カトリックに代表される、「原罪論」とは、最初の人間であるアダムは食べてはいけないりんごを食べるという罪を犯しました。その罪を犯す、という行為がすべての人間に遺伝し、人間は生まれながらに罪人であるというものです。このような考えはギリシャ正教にはありません。ギリシャ正教では逆に、神は人間を善なるものと創造したとしているのです。 ローマン・カトリックでは、人間が神を知ることができないのはこの原罪のためであるとします。しかしギリシア正教では、神は人間が表現できる次元に存在しないから、知る知れないの話ではないとするのです。 どことなくほっとする、温かみのある厳かさ、ギリシャ正教の修道院を訪れるとそんな気持ちになるのも、その考え方ゆえかもしれません。
北風が岩間を吹き抜ける冬、野生的で威風堂々とした光景を目にするとき、あるいは陽光溢れる春の日に、野生の花や潅木から発する芳しい匂いに包まれながらやさしく穏やかな景色を眺めるとき、人は、人間という存在のはかなさを感じ、自然の、そして神の、存在へと導かれるのかもしれません。 2007年はギリシャの人びとにとって自然の偉大さを改めて思い知らされた年だったといえるかもしれません。夏は異常気象といわれるほどの暑さで、しかも山火事が大きな惨事を引き起こしました。かと思うと、その同じ年の冬、アテネは異例な寒波に襲われました。メテオラは例年にない大雪で山道は閉鎖され、修道院への観光客の立ち入りができなくなりました。 雪の閉ざされたメテオラの頂上にうっすらと灯る光を見るとき、その厳かな・・・近寄りがたい聖域たる雰囲気がいっそう強まる気がしてなりません。 世を捨てた苦行者は岩の頂で祈るとき、霊的恍惚感に満たされるのでしょうか。そこでの厳しい暮らしに彼らを耐えさせるのも、その感覚があるからこそなのでしょうか。 世に背を向けた苦行者たちが初めてギリシャのメテオラにやってきたのは、3世紀の終わり頃です。人里離れた洞窟や洞穴に住み、祈りの生涯を送りました。彼らの多くは一人、孤独に荒野で過ごしましたが、なかには修道院に入る者もいました。他の修道院との共同生活のなかでともに礼拝に加わり、祈ったのです。修道士たちの生活の中心は修道院内に建てられたカソリコンと呼ばれる教会堂です。ここで正典にのっとった礼拝を行ったのです。
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